和太鼓の起源
太鼓は、様々な形のものが世界中に存在していますが、それらは中が空洞になった木の胴の両端に皮を張ったもので、胴の長さやふくらみ、皮の張り方に多少の違いはありますが、構造はほぼ共通しています。
では、太鼓はどれくらい前から使われていたのでしょう。
言語の代わりに叩かれていた太鼓
世界には数多くの楽器がありますが、その中でも打楽器はもっとも古くらか使われていた楽器のひとつではないかといわれています。
打楽器といえばまず太鼓が思い浮かびますが、アフリカのナイジェリアのヨルバ族は、文字が発明される以前から、太鼓を使った「トーキングドラム」(「話し太鼓」ともいわれている)という奏法を、コミュニケーションの手段として、言語の代わりに使っていたそうです。
※「トーキングドラム」とは、音の高低や強弱、音色、リズムなどによって、言葉を模倣するように叩き、コミュニケーションの手段や遠距離の通信などに使った、西アフリカの太鼓の奏法のことです。
太鼓は2マイル(3.22km)先まで音が届くといわれており、ヨルバ族は、近代文明が発達するずっと以前から、何千年もの間、太鼓を言語の代わりに使いコミュニケーションをとっていたといわれており、太鼓は私たちが想像するよりもはるか昔から存在していたようです。
日本における太鼓のはじまり
日本では、縄文時代(紀元前1万3000年~紀元前300年)に縄文式土器に皮をかぶせ、ひもで巻き固定したものを叩いたものが太鼓の始まりといわれており、日本における太鼓の歴史も非常に古いものと思われます。
長野県茅野市(ちのし)にある尖石遺跡(とがりいしいせき・縄文時代中期の集落遺跡)では、皮を張って太鼓として使用されていたのではないかと思われる縄文式土器も出土しています。
縄文時代は、仲間同士の伝達の合図や神や祖先との対話のための道具として使われていたのではないかと考えられています。
また、日本の神話の天岩戸の場面でも、天岩戸に隠れた天照大神(あまてらすおおみかみ)が岩戸から出ていただくために、桶を伏せて音を鳴らしたと伝えられています。(これも太鼓の一種かもしれませんね。)
太鼓を打つ埴輪像
日本の歴史の中で、人物が太鼓を持って叩いている姿が確認できる最も古いものとして、東京国立博物館が所蔵している『太鼓を打つ人物埴輪像』があります。
その像をみて見ると、肩から下げた紐で太鼓を斜めに抱え、左手で太鼓の胴を抑えながら、右手に持ったバチで太鼓を打っています。
太鼓を打つ人物埴輪像(東京国立博物館蔵)
出典:太鼓という楽器(財団法人 浅野太鼓文化研究所)
その太鼓は樽状に胴が膨らんでいて、連続した三角文(さんかくもん)が彫られています。三角文は、太鼓の両面に張った皮の張りを調節する紐ではないかと考えられ、この太鼓は、現在でいう締太鼓であると考えられます。
※三角文 (さんかくもん)とは、三角形の文様で、線状と塗りつぶしたものがあり、6世紀以降~7世紀の多くの装飾古墳で見られるものです。
この埴輪像は、群馬県佐波郡堺町大字上武士の前方後円墳(全長約80メートル)である「天神山古墳」(古墳時代)から出土したもので、頭部を失ってはいますが、その高さは58.5センチあります。
古墳時代の太鼓そのものは現存していませんが、この埴輪は、すでに古墳時代(3世紀末から6世紀)には、締太鼓が日本に存在していたことを表しています。
和太鼓は、皮の張り方によって締太鼓と鋲止め太鼓の二つに大きく分類することができます。
現在、締太鼓と鋲止め太鼓は、目的や芸能の種類によって使い分けられていて、どちらもいろいろな場面で目にすることができますが、日本に最初に登場した太鼓は、締太鼓ではないかと考えられています。
インド地方の太鼓を模倣?
和太鼓の起源については、謎が多くまだまだ解明されていない部分もありますが、この古墳時代の締太鼓は、インド地方で使われていた太鼓を模倣したのではないかという見解もあります。
この埴輪よりも後年、古墳時代の終わりの頃に、中国・朝鮮から様々な太鼓が日本に伝わることとなりますが、この時、すでに日本には「つづみ」という言葉がありましたので、それと区別するために伝わってきた太鼓は、「くれつづみ」と呼ばれていたというのです。
この「つづみ」という言葉ですが、語源は、当時、インドで太鼓のことを「ヅンヅビー」と呼んでいたため、その言葉が転化したものと考えられており、そうなると、古代の日本は、中国・朝鮮との交流の以前に、インド地方と交流があったことになります。
現在、インドとの交流は確認されていませんので、そうなると、交流のなかった南方の太鼓の形を当時の日本人が知っていたのはなぜかという疑問が生まれてきます。
これらの疑問は、後年、だんだんと解明されると思いますが、こういったルーツ探しというのは、なかなかロマンがあるところではないかと思います。
「伝達や神・祖先との対話の道具」から「豊作を祈り感謝する道具」へ
野生の動植物の狩猟や採集を生活の基盤としており、自然への崇拝が浸透していた縄文時代では、太鼓は仲間同士の伝達の手段や神や祖先との対話のための道具として使われていました。
その後、時代が移り変わり農耕が定着した頃から、太鼓は、神様に豊作を祈ったり、雨乞いをしたり、収穫を感謝する儀式に使われる道具として打ち鳴らされるようになったと考えられています。