八丈島太鼓
八丈島太鼓とは
「八丈島太鼓」は東京都から南方海上287km に位置する八丈島で叩かれている郷土芸能の太鼓です。「八丈太鼓」、「八丈ドンドラ」ともいわれており、その起源は江戸時代であるといわれています。
八丈島太鼓は、太鼓を横向きにして台の上に乗せ、両面から2人で叩きます。1人は地打ち(下拍子)を叩き、もう1人は、上拍子といってそのリズムに乗せて自由奔放に太鼓を打ち鳴らします。
この演奏スタイルが八丈島太鼓の最大の魅力となっており、他の郷土芸能の太鼓とは大きく違うところです。
昔は大勢の人が集まる盆踊りのときなどに、松の木の枝に太鼓を吊るして叩いていたそうです。太鼓の周りには大勢の女性や子供たちが集まり、先を争うようにして両面から叩き、その拍子に合わせて唄が歌われていました。
八丈島では、太鼓を叩きながら拍子に合わせて歌う唄を「つがる」といい、明治末期から大正時代にかけては「太鼓甚句」と呼ばれ、現在では「太鼓節」と呼ばれています。
八丈島の郷土芸能である「八丈島太鼓」
八丈島太鼓の起源
八丈太鼓は一体いつ頃から叩かれるようになったのでしょうか。
一説によると、「刀を取り上げられて八丈島へ島流しにされた流人(武士)が、腰に差していた二本の太刀を二本のバチに置き換えて、望郷の思いで太鼓を打ち鳴らした。」これが、八丈島太鼓のはじまりといわれていました。
このように、八丈島に関する多くの文献が、八丈太鼓を流人と結びつけて説明していますが、現在では、もう一つの説である「八丈島太鼓は島民の娯楽として誕生したのではないか?」という説が有力になっています。
というのも、八丈島で最も古い記録とされている弘化5年(1848年)出版の「八多化の寝覚草」(著者:鶴窓山人他)にある「婦人盆中太鼓打図」には、女性達が太鼓を木に吊るして叩いている様子が載っていることから想像できます。
これといった娯楽もなかった時代に、本土から遠く離れた島で、何かの行事などのときに太鼓を叩き、唄を歌って、日頃の疲れを癒したのがはじまりだったのではないかと想像できます。
「八多化の寝覚草」婦人盆中太鼓打図
出典:「国立国会図書館デジタルコレクション」ホームページ
女性に好まれた「八丈島太鼓」
「八丈島太鼓」は、特に女性に好まれて、女性が主に叩いていたといわれています。これは、八丈島は女性優位の島だったことから、女性の叩き手が多かったということも考えられます。
八丈島では、江戸時代に幕府に絹織物を献納していたことから、島の女性達は「租税として幕府に納める絹織物を織る」という重要な役割を担っていました。
機織はとても細かい作業で、根気のいる仕事です。また、絹糸は繊細な糸なので、手や指先が荒れていたのでは、献納品として納める良い絹織物を織り上げることはできません。
機織りをする女性たちが、絹を織るのに疲れたときなどに、気分転換に太鼓を打ち鳴らしたのでは、と想像ができます。
八丈島の夏祭りにて演奏されている「八丈太鼓」
※八丈島太鼓は、自由奔放に太鼓を叩いて唄を歌うというスタイルですが、近年は、一般的な楽譜もあります。私たちはその楽譜にしたがい、2人一組であるいは太鼓を平置きにして大勢で叩いたりして、舞台で演奏しています。