和太鼓が主役の座へ

和太鼓が主役の座へ

地元限定の伴奏楽器だった和太鼓

このように、神様への信仰に基づく日本各地の民俗芸能や江戸時代に基盤を固めたいわゆる江戸芸能などで、ますます活発に使われるようになった和太鼓は、お祭りのお囃子や神楽、歌舞伎などの伴奏楽器として使われてきました。

八丈島や北陸の一部では昔から娯楽として太鼓を楽しむ地域もありましたが、ほとんどの地域では太鼓は特別な時にのみ打たれる神聖なものとして位置づけられていました。

1943年に小倉祇園太鼓が登場する映画『無法松の一生』がヒットし、クライマックスの太鼓打ちシーンが人々に強い印象を残しました。その映画は、その後何度もリメイクされるほど人気を博しました。

そのことがきっかけとなって、温泉地などでは、観光客向けに地元の太鼓を披露するようにもなりました。

戦後、和太鼓が脇役から主役の座へ

太鼓が芸能楽の一つのジャンルとして独立するのは、戦後になってからです。

第二次大戦後の1951年に、明治時代に途絶えていた「御諏訪太鼓(おすわだいこ)」が長野県のジャズドラマーだった小口大八(おぐち だいはち)氏によって復元された際に、「複式複打」という集団で太鼓を演奏するスタイルを考案し、脇役であった和太鼓を主役に押し上げました。

この和太鼓演奏スタイルは徐々に広がっていきました。→御諏訪太鼓ホームページ

戦後の一大イベントである東京オリンピックや大阪万博で地域に伝わる勇壮な和太鼓や伝統芸能が演奏披露され、今まで祭り限定で地元のみで披露されていたものが、各種イベントに出演し活躍するようになりました。

和太鼓プロ集団の誕生

1950年代以降、長野の「御諏訪太鼓」や北九州の「小倉祇園太鼓」、石川の「御陣乗太鼓」、東京の「大江戸太鼓」がイベントに出演するようになってきましたが、和太鼓演奏がコンサートという形で舞台化されたのは、「鬼太鼓座(おんでこざ)」以降ということになりそうです。

1969年に、佐渡で田耕(でんたがやす)氏が「鬼太鼓座(おんでこざ)」を結成しました。

鬼太鼓座は、1975年のボストンマラソンでマラソンを完走後、そのまま和太鼓演奏を行い華々しくデビューしました。

この鬼太鼓座の結成が日本で和太鼓専門プロ集団が誕生するきっかけとなり、その後全国各地にプロ集団が誕生し、「コンサート形式で和太鼓を演奏する」という太鼓演奏スタイルが急速に広まりました。

「鬼太鼓座(おんでこざ)」ホームページ

和太鼓団体の広がり

1988年のふるさと創生事業により、全国各地に和太鼓のチームが結成されました。

現在では日本のほぼすべての自治体に和太鼓団体が存在するほど和太鼓が広がっています。

和太鼓は、町おこしや青少年の育成などに用いられる一方、和太鼓集団の海外公演を通じて欧米をはじめとする世界中に知られるようるになりました。

進化する和太鼓

和太鼓が日本中に広がるにつれて、太鼓のデザインにもさらに工夫が加えられるようになりました。

従来は横置きにして打った桶胴太鼓を縦置き型に改良した林英哲氏考案の「英哲型桶胴太鼓」や、数枚の団扇太鼓をスタンドに固定した「連立式団扇太鼓が考案されました。

「英哲型桶胴太鼓」と「連立式団扇太鼓」による林英哲氏の演奏

近年ではストラップをつけて肩から吊し、動き回りながら演奏できる「かつぎ桶胴」に人気が集まっており、各種コンサートでは、英哲型桶胴太鼓をさらにアレンジした大小さまざまな桶胴太鼓が使われるようになりました。

紐で締める附締太鼓にしても、その後、ボルト締めやターンバックルで締める太鼓が登場するなど、工夫をこらした太鼓が登場してきました。

かつぎ桶胴など、様々な太鼓を使って演奏する鼓童の「彩」

日本における和太鼓は、通信手段や祭礼の呪具として使われて以来、時代の変遷とともにデザイン面、文化面でさまざまに形を変えながら進化してきました。

そしてこれからも人類が存続する限り、和太鼓は時代の文化と融合しながら、進化し続けていくことでしょう。

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